【イベント】ドロテアとテオドール(後記)

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ドロテアが初めてオートマタの指を動かした日から、二人の新しい生活が始まった。

奇跡は起きた。けれど、奇跡がすべてを解決してくれたわけではない。
生身のドロテアは、今も治療院の寝台から動くことができない。オートマタは彼女の意思を
受け取る身体になったが、人の身体とは何もかもが違っていた。

立ち上がろうと思っても、脚がうまくうごかない。力を入れすぎれば関節が跳ね、弱すぎれば
指一本動かない。視界の距離感も、音の聞こえる方向も、はじめは曖昧だった。
それでもドロテアは、できないことを嘆くより、できたことを一つずつ喜んだ。

昨日は指を動かせた。今日はカップを持ち上げられた。明日には何ができるようになるのだろうか。
ドロテアが一度成功した動作は、クリスタルコアに接続された演算核へ記録することができた。
テオドールはそれを「マクロ」と呼んでいた。
立つ動作。一歩を踏み出す動作。扉を開ける動作。手を差し出す動作。
ドロテアは自分の意思と機体の動きを何度も重ね、昨日までできなかったことを、オートマタの
自分のカラダへ教えていった。

やがて彼女は、治療院の廊下を一人で歩けるようになった。
初めて庭へ出た日は、風の中に長い時間立っていた。オートマタの肌は、風の冷たさを人と同じ
ようには感じない。それでも木々が揺れ、花が香り、鳥が空を横切る光景は、何年も天井だけを
見ていた彼女にとって、まぎれもなく世界へ戻った証だった。

「綺麗ですね」

隣に立つテオドールへそう告げると、彼は自分が褒められたように嬉しそうに笑った。

「ええ。本当に」

二人はよく話をした。
ドロテアが動けなかった年月に聞いていたこと。誰にも返事を届けられず、ひとり心の中で
泣いていた夜のこと。
テオドールが医師を志した理由や、偏屈だった祖父の思い出。

患者と医師として始まった会話は、いつしか互いの一日を分け合うためのものになった。
朝、テオドールが病室へ来ると、ドロテアはオートマタの身体で彼を迎えた。昼は機体の
訓練をし、夕方には二人で生身のドロテアの世話をした。
彼女は眠る自分の髪を梳き、肌を拭き、花瓶の水を替えた。

ある日、テオドールは尋ねた。

「辛くはありませんか」

ドロテアは、寝台の上の自分を見つめてから首を横に振った。

「いいえ。むしろ嬉しいのです
 あの頃のわたしは、ずっと一人でした。
 ですから、わたしがこの身体のそばにいてあげたいのです」

テオドールは何も否定せず、彼女と並んで寝台の傍へ座った。

そうして季節が巡った。

ドロテアの動きは少しずつ滑らかになっていった。
テオドールは医師として彼女の生身の身体を診ながら、機巧研究者として接続装置を改良した。
ドロテアは新しい動作を覚えるたび、真っ先に彼へ見せた。

日常の動作だけではない。彼女は魔力を練り、術式を結ぶ訓練にも取り組んだ。
生身の頃に覚えていた感覚と、オートマタの魔力回路は同じではない。
小さな灯りをともすだけで何度も失敗し、最初に成功した火花は、二人で慌てて消さなければ
ならないほど勢いよく燃え上がった。

それでも一度成功した術式はマクロとして残り、次からは少しだけ正確に使えるようになった。
やがてドロテアは、自分の身を守る術だけでなく、誰かを守るための障壁や治療の補助まで扱える
ようになった。
テオドールは成功のたびに細かな記録をつけた。ドロテアはその横から記録を覗き込み、失敗した回数まで書かれていることへ小さく抗議した。

「成功したことだけを書いてくださればいいのに、いじわるな人」

「失敗も、あなたがここまで歩いてきた大切な記録です」

そう答えられると、ドロテアは困ったように笑い、それ以上は何も言えなかった。

いつしか二人は、互いを患者と医師ではなく、名前で呼ぶようになっていた。
ある夕暮れ、庭からの帰り道で、テオドールは足を止めた。

「ドロテア」

振り返った彼女へ、彼はしばらく言葉を探してから続けた。

「これから先も、あなたと同じ景色を見たい
 嬉しい日も、うまくいかない日も、あなたの隣で迎えたいのです
 ……私と、家族になってくれませんか」

ドロテアは答える代わりに、覚えたばかりの動作で彼の手を取った。
あの日、病室で初めて触れたときよりも自然に、けれど同じほど大切に。

「はい、テオドール
 わたしも、あなたと生きたいです」

やがて二人は夫婦となった。
テオドールの家には、生身のドロテアを療養させる部屋が設けられた。窓辺には季節の花が
絶えず、居間には二人分のカップが並んだ。
オートマタを動かす意識も、考え、笑い、愛する心も、すべては療養室で生きるドロテアのもの
だった。機体は、彼女の意思を世界へ運ぶもう一つの身体にすぎない。

朝になれば挨拶を交わし、仕事を終えれば食卓を囲み、眠る前には明日の予定を相談する。
二人にとってそれは、奇跡を誇るための暮らしではなかった。
長い孤独の果てにようやく手に入れた、ありふれた幸福だった。
そして二人は、その穏やかな日々がこれからも続いていくと信じていた。